読売新聞 2008年9月8日 朝刊

たばこの害

国立がんセンター名誉総長 垣添忠生

 現在、日本人の死亡原因の一割はたばことされている。毎年、10万人を超す人がたばこを原因に亡くなっていることを皆様はご存知だろうか。つまり、たばこは人の健康、生命に直接かかわる問題であり、嗜好とか趣味の問題ではない。

 世界保健機構(WHO)は、2030年までに全世界で年間に800万人以上の人たちがたばこが原因で死亡する、と予測している。また、WHOの下部機関である国際がん研究機関(IARC)は、04年に世界中のたばこ関連の論文を厳密に評価した結果、たばこの煙は直接人に吸い込まれる部分はもちろん、周りに及ぶ煙も、もっとも明らかな人に対する発がん物質と定義している。 

 また、WHOは03年5月の世界保健総会で、「たばこ規制枠組み条約(FCTC)」を採択した。その主な内容として、@たばこ税や価格の引き上げA公共の場所や職場における禁煙環境の整備Bたばこ広告の禁止Cタバコ包装へのわかりやすい健康警告表示----などがあり、日本政府も翌年6月、これを批准した。

 たばこは長い間、人の嗜好、趣味、一種の文化と見なされてきた。しかし、上に述べたような世界的潮流を前にして、04年3月、アイルランドはパブやバー、レストランを全面禁煙とし、世界を驚かせた。アイルランドのパブでは、酒とたばこをのみ、談笑する人々の姿は世界中に認知されていたからである。 

 これと前後して、ニューヨーク市でも、ノルウェー、ニュージーランド、ウガンダ、ブータン、イタリアなども、スモークフリー(禁煙)法を実施した。また、ニューヨーク市では、02年から包括的な完全なたばこコントロール計画を実施した。すなわち、たばこ税を上げ、スモークフリー法を実施し、禁煙のための医学的支援、メディアを使った徹底した啓発教育などを実施した結果、10年間下げ止まりだった喫煙率が2割も減少し、18%を割り込んだという。

 たばこが健康上、有害であることは実は1950年代に学問的には確立されていた。しかし、以来50年以上、その害や依存性を否定するたばこ会社との戦いが続けられることとなった。先進国の一部では、たばこ政策を対がん戦略、あるいは健康上の問題として積極的に展開した結果、喫煙率は20%以下となった。

 そこで、たばこ会社は販路を開発途上国に求めた。80年代の日米貿易交渉による市場開放の結果、現在の日本の輸入たばこのシェアは35%に達し、そのうち実に97%は米国製である。米国のたばこ会社は、自国でたばこが売れなくなると日本や発展途上国に利益を求めたわけである。

 現在わが国の喫煙率は、男40%、女10%、全体で25%を切ったところである。60年代に男84%だった喫煙率を40%まで低下させたわけだから、これをさらに半減して20%とすることは不可能ではないだろう。

 以下、わが国の喫煙状況の過去を振り返り、今後の対策を語ることとしたい。まず、忘れることができないのは、1904年専売事業法、84年には、たばこ事業法と、二つの法律によってわが国のたばこ事業の発展の促進が図られてきた、という事実である。これはとりもなおさず、たばこによる財政確保と産業振興を意味する。

 およそ、人の口や鼻から人体に入るものはすべて法律で厳しく規制されている。いわく、食品や添加物、食器は食品衛生法、飲料水は水道法、空気は大気汚染防止法、そして医薬品は薬事法による。しかし、従来、束s個はすでに健康上の危険性が長く認識されながら、わが国では合法的に認可され、危険性に見合った規制が行われてこなかった。

 私はたばこを直ちに禁止しろなどと主張するつもりは無い。しかし、個人の問題は抜きにして、国としては、公衆の健康の問題として最優先でたばこ問題を規制の面からも考えるべき時期に来ているのだと思う。がん対策基本法が施行された今、対がん戦略としてもきわめて重要と思う。

 02年10月には、東京の千代田区が「マナーからルールへ」を標語として路上禁煙条例を決定して注目され、多くの追随する自治体が現れた。また、日本呼吸器学会、日本肺がん学会、日本がん学会など多くの関連学会が相次いで禁煙宣言を決めていった。さらに、日本医師会、日本医学会、日本歯科医師会、日本看護協会などの各種の団体も反たばこ活動を展開している。そして、翌年には健康増進法が施行され、これに沿って例えば、文部科学省は受動喫煙防止通知を出すと、全国の自治体で公立学校の敷地内禁煙が進んだ。

 一方、神奈川県は不特定多数が利用する公共的施設の屋内禁煙条例案を年度内に県議会に提出する予定だという。民間施設を含めた不特定多数が利用する施設は受動喫煙の可能性が高いので、罰則付きで原則禁煙にしようというものである。

松沢成文知事は、自主性に任せるだけでは受動喫煙の防止は進まない、として思い切った手をうとうとしている。私は、この提案を強く支持したい。

 わが国のたばこ対策、すなわち喫煙率を下げ、受動喫煙の機会を減らす上で、最も効果的なのは、現行一箱300円のたばこ価格を、一気に500円に値上げすることではないかと私は考えている。一箱1000円にする議員連盟も生まれているが、少なくとも一気に500円にすると、たばこ税収2兆3000億円を上回る増収と成り、喫煙率も消費量も激減する、とする試算もある。

 英国の一箱約1300円、ニューヨーク市の930円などと比して、わが国の300円は安すぎる。それが未成年の喫煙にまでつながっていると思う。もちろん、密輸対策やたばこ育成農家対策などは平行して検討されるべきであろう。

 国民の健康、生命問題としてたばこ問題を捉えなおすなら、「たばこ事業法」の廃止も考慮されてしかるべき、と私は思う。

 

垣添忠生氏

1941年生まれ。東大医学部助手、都立駒込病院医員などを経て国立がんセンター病院勤務。手術部長、院長、総長などを歴任し、2007年4月から現職。